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保育園では問題なかったのに、「小学校」には行けない理由

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「保育園」と「学校」の決定的な違い

保育園や幼稚園には、まったく問題なく通っていたのに、

小学校になって「急に」不登校になってしまう子どもたちがいます。

我が子もそうでした。なんなら、保育園までは、先生の指示をよく理解し、従うこともできる「いい子」だったのです。

このとき、親としては、今まで問題なく行っていた子だったのに、なぜ?と、非常に動揺するし、理由がわからず困り果ててしまいます。

我が家もまさにそうで、そこから、本人のこと、家庭環境のこと、勉強や学童、友人関係など、

ありとあらゆることを再点検することになりました。

また、当然、担任の先生と何度か懇談の場などで話をしてきました。

ただ、この時、先生といろいろ話したことの中で、親として、のちに役立ったことというのが、なぜか「無い」のです。

それどころか、良くしようと思ってアドバイス通り行ったことが裏目に出て、子どもの状態が悪くなったこともありました。

いまだに、当時の対応については後悔ばかりです。

なぜ、こんなことが起こってしまったのか。

その後、2年間、学校の仕組みや子どもについて考えていく中で、見えてきたことがあります。

「保育園」と、「学校」では、先生たちや組織内でも、基盤となる視点がまったく違う、ということです。

学校は「集団の一部」として子どもを見る場所

今から思えば、学校の先生から指摘されたことやアドバイスは、

「教室という集団の中で、問題を起こさずに過ごすため」のものがほとんどでした。

学校という場所は、教室という「集団」で何かを学んでいくため、

先生の中には「集団」としての形を整えていくことが考え方の基盤にあるようでした。

「学級運営」という言葉がありますが、

これがうまくいっていると、先生の力として評価される、という土壌があるように思えます。

つまり、クラスを、問題なくつつがなく管理して運営すること。

そのために、大きな声を出したり、恫喝したりする先生もいます。

でも、それはあまり問題としてみなされていないようです。

それよりも、集団として、「先生の指示を聞いて言う通りにできる子の集団」を作ることが優先されているようです。

そこからはみ出してしまう子(行き渋りや不登校も含む)については、

集団の形を整えるために、その子本人や、親が、場合によっては先生側からも、

どうにか努力して「学級という集団の中にいられるよう近づける」という方向性です。

先生との面談の中で、「指示に従えないと、みんなの前で叱ることが多くなる」という言葉を聞いた私は、

教室の中で子どもの立場が悪くならないようにと思い、

どうにか叱られずにすむように、子供に働きかけました。

ただ、そこに、

子どもの本人の「困りごと」を探ろうとするプロセスはあっだろうか。

これに早く気づくべきでした。

行き渋りをする」「叱られるような行動をする」その背景には、

子どもにとって、自分では手に追えない「困りごと」が必ずあります。

ただ、それが子ども自身でも何なのかよくわかっていなかったり、うまく言葉で表現できなかったり。

それが「ある」ということをまずは認め、

その困り感をどうやって見つけていくか、から話が始まるべきところ、

そこを見ないで、表面的に「集団の掟にそぐわせそうとする、集団の中に入れようとする」ことは、

いくらやっても実を結ばないのは当然だったかもしれません。

子ども本人の「困りごと」をベースにしていないから、何をしても裏目に出てしまい、残念ながら有効な手を打つことができなかった、という実感です。

保育園や福祉では、あくまで「その子」を中心に見据えていた

いっぽう、

子どもが通っていた保育の世界では、考え方が大きく違っていたように思います。

子ども自身の困りごとや課題を見てくれていたという印象があります。

また、私自身も、医療や保育の勉強をしてきましたが、

医療や保育では、考え方の大前提となる基本は

「その子本人を主体として、何に困っているのか、成長のために何が必要なのか考えていく」こと。

これをとにかく叩き込まれます。

保育園によっては、一斉保育で、昔ながらのやり方でやっているところもあると聞きます。

ただし、多様化が進んでおり、保護者は自分で、子どもに合った保育をある程度選んで希望することができます。

どちらがよい、というわけではありません。

先生によって、どちらの視点も持って学級を運営しておられる先生も当然いらっしゃると思います。

ただ、基盤となる視点(=文化)の違いは大きいと思いますし、

保護者や子どもが「選択できる」という余地は大きいと思います。

行き渋り・不登校になったとき、「集団」なんて悠長なことは言っていられない

そして、子どもが実際に「行き渋り」「不登校」になってしまった時、

もう、子どもはじゅうぶんに傷付いていたのです。

傷ついて、「行かない」選択をすることで、必死に自分を守ろうとしている子どもに、

「集団に合わせる」というさらなる負担をかけるべきではないことは明らかです。

でも、その時は気付きませんでした。

怠け癖がついてしまうかも、このまま行かなくなるかもしれない、そう思い、

どうにかして行かせようとしてしまった。

それは、親として、

「このまま行かなくなるんだろう」という予感があるからやってしまうことなのかもしれません。

でも、そんなになってまで「集団」を優先して、

子ども本人にどんないいことがあるでしょうか。

何もありません。

「いい子」でなく、「適当にやり過ごせる力」が、学校生活では必要

「困ったことがあったら自分の力でどうにかしよう」

「知りたいことは深く徹底的に掘り下げよう」

「きちんと決まりを守って、先生の言うことを聞きましょう」

これらは、一部の子どもたちにとっては、学校生活を送る上で、最も足を引っ張る呪いの言葉になると思います。

学校という文化に適応するだけで精一杯の子どもに、さらなる負荷をかける言葉です。

真面目な子どもたちは、先生の言うことを飲み込んで、自分の中での価値観にしていくため、

うまく逃げたり、かわしたりすることができません。

「求められるいい子」をやりすぎてしまうタイプの子たちには、

「もっと楽に」「肩の力を抜いて」なんてできません。

そんな、真面目で不器用な子どもたちに、もっと目を向けてほしいなと思うのです。

表向きの、きちんとしたいいことばかり言わないで、

命を守るために本当に必要なことこそ、大切にしてほしいと思います。

急に、かかわる大人の視点の基盤が

「個」から「集団」へと変わる大きな環境の変化が、

たった6歳の子どもの心にどんな影響を与えるのか?

ルールでがんじがらめの世界に放り込まれたらどうなってしまうのか?

不登校が増えたのは、変わった幼児教育と、変わらない学校教育の落差にある

そこまで言ったら言い過ぎでしょうか。

時代が変わって幼児教育が変わったのに、学校教育だけは変わらないばかりか、

昔に比べて「管理のための明文化されない小さな小さなルール」が大量にできて、

より窮屈さが増しているような気がしてなりません。

窮屈さが増すのは、人手が少なく負荷が大きすぎ、管理のための管理をする必要があるからです。

結局、教育の人手不足、業務過多が原因

なぜ、管理のためのルールが大量にできるのか、

それは単に「40人近くを1人で見る」なんて、無理だからです。

昔はそれでよかったのかもしれませんが、現代において、時代がどんなに変わろうとも、学校が変わらないのは、

その大前提が変わらないからです。

結局は、お金の問題です。

子どもの教育に本気でお金をかける気があれば、こんな状況が放置されているはずがないと思います。

先生方、おひとりおひとりは一生懸命やっていらしているのに、子どもはどうにもならない。

そのとき、この「視点の違い」と、「管理に労力を割かなければならない少なすぎる人員配置」が大きな原因のように思えました。

「もう日本、無理なんじゃないか」

そう思ってしまったのには、こんな理由もありました。

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